webライター 西海 登の営業日記

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小説:メディア王と呼ばれた男(途中まで)

 テレビのチャンネルが12チャンネルまでなのはなぜか?ということから、それを決めた通信官僚がいたのでは?というところから着想した作品です。

 この後、悔しいことに「海賊と呼ばれた男」が刊行され、大ヒットしてしまいました。なんだかパクリみたいになってしまった可哀想な作品です。

 

 

 

 

疑問に思ったことはないだろうか。

どうしてテレビのチャンネル数は12までなのか。


今は、ケーブルテレビ、CS放送などのチャンネルも合わせると優に百を超えることも珍しくない。


だが、市販のテレビのチャンネル数はなぜか12までだ。



これには終戦直後、この国が焼け野原となった当時を憂い、通信官僚となった一人の男が関わっていた。


彼は、民放、NHK等すべての経営に関わるテレビマンたちから「メディア王」と呼ばれて恐れられていた。

テレビの創成期から、絶大な影響力をもった1980~1990年代まで、彼は強権を振るってきた。



この話を聡明な読者殿が信じるとは到底信じがたい。

それもそのはずである。

機密文書の議事録にしか、彼の名は出てこない。


だが、彼がいなければ、現在の絶大な影響力を持つテレビが存在しなかったと言っても過言ではない。


事実、在京キー局は片手で数えるほどしかない。


この理由として、旧電気通信省(現総務省)の管轄する放送法の存在があった。


この放送法を武器に、政治家、放送局社長、NHK会長をも操った稀代の大物がいた。



その男こそ、通信官僚 大曽根孝明。またの名を「テレビを牛耳った男」「メディア王」だ。




時は終戦直後の昭和23年まで遡る。


この年、NHKは戦後初めてテレビジョン放送の電波発射実験を行った。

大曽根はこの年、旧制東京高等工業学校で現東京工業大学を卒業した。

彼は、この年、国家公務員試験に合格し、電気通信の専門職員として、旧逓信省に内定していた。

昭和24年には省庁再編により電気通信省となったが、彼の仕事内容に大きな影響はなかった。


大曽根は、工業大学卒業の専門職員だったため、出世コースに乗るキャリア官僚とは一線を画していた。

だが、彼には、頭脳明晰なキャリアと対等に渡り合える程の器量を兼ね備えていた。

若いころからメディア王の素質を垣間見たエピソードがある。


それが、ある無線中継所を建設している土木工事現場での中間検査を行う際の一節だ。



  ――


ジープが山道を登っていく。

マイクロ波の回線の中継を行う局など必ずと言っていいほど山にある。


大曽根さん、もうすぐですよ」

NHK 建設局の村田だ。

土木出身の彼は日本中にこれから張り巡らされるであろうマイクロ波回線の建設工事の監督をしていた。

「大変なところですね。こんなところで1年も工事されていたんですか?」

大曽根はこの中継局の検査官だった。

「まあ、それが土木技術者の宿命ですから。ダム建設でも同じですよ」

村田は笑った。大曽根には理解ができない世界だった。


「こんなこと大曽根さんだから言いますけど、工事出張は手当てが厚いんで、たまに街へ行こうもんなら豪遊できますよ」

村田は豪傑だ。彼は大きなものを作りたいと思って土木を専攻した。そしてなぜかNHKへ就職したのだ。

「ところで、なぜ土木の村田さんがNHKに?」

大曽根が尋ねると、よく聞かれると前置きをした後に、

「これからは放送の時代でしょう。ラジオも聞こえない地域も多いですし、テレビなんて、まだ1%も普及していない。放送局も、放送をするにも戦争で設備がズタズタじゃ、電波を発射することすらできない」

と語った。村田は煙草に火を点け、息を吐いき、運転手に次の道順を指示した。

NHKでは土木をやった人間が少ない。だから、自分の思うようにできる」

村田は誇らしげに語った。

それを見て大曽根も何か清清しい気分になった。

相変わらずジープは枝葉の多い山道を登り続けていた。


東京から名古屋、大阪へテレビの中継回線を建設する壮大なプロジェクトに、村田は胸の高鳴りを抑えきれずにいた。

「私は土木の技術屋で、無線工学など難しすぎてよく分からないんです。大曽根さんにもいろいろと問い合わせさせていただいて、その節はお世話になりました」

「なんですか。急に改まって」

大曽根と村田はマイクロ回線の建設でそれぞれの担当者同士で、そこまで親しくはなかったが、知らない仲でもなかった。


後のNTTとなる当時の電気通信省大曽根は属していたが、大曽根の所属する放送行政部門と、後に電信電話公社へ移行する通信部門とは対立関係にあったと言っていい。

当時の長距離通信の主流は、短波帯を使用したモールスによる電報が専らの通信手段で、大きな設備投資が必要だったマイクロ波の長距離回線に興味すら示していなかったのだ。

また、当時から労働組合が強かった電気通信省の通信部門は、マイクロ波回線が構築されれば、電報局員の仕事がなくなると猛反発していたのだ。


そんなマイクロ波回線の構築に消極的だった省内の動きに見切りをつけ、NHKを巻き込んで放送行政部門でマイクロ波回線の構築を行おうと提唱し、原案を上司に直談判したのが大曽根だったのだ。

放送行政局長は彼の提案を引き上げ、大臣に働きかけ、見事に予算を勝ちとった。当初、NHKとの五分の投資であったが、NHK側の配慮で放送行政局負担は3割で済んだのだから、彼の株は上がった。

NHK側が予想以上に、このプロジェクトに前向きだったのだ。その影には、ここにいる大曽根と村田のような担当者同士が熱い思いを共有したことによるものだった。


中継局は愛知県新城市の本宮山中腹に建設されていた。

「着きましたよ」

村田はジープを降りた。

中継局は案外小さかった。掘立小屋のような建屋の屋上に、大きなアンテナが角のように伸びていた。

「電力会社からの受電がまだですので、中は暗いですから気をつけてくださいね」

村田が早速入っていった。

大曽根は、アンテナを見上げた。

ここまで来るのに苦労したものだ。そう心の中でつぶやいた。


この中継局は、大曽根が中間検査を行った後、電波法による落成検査が控えていた。


大曽根の対応はこれからが本番だ。


なぜなら、落成検査が通信部門によるものであったからだ。

今日、大曽根がここを訪れたのは、中間検査とは名目だけで、村田との作戦会議を行うためだった。

そこで不合格になってしまえばプロジェクト自体が頓挫しかねない。

もう後には引けなかった。